ショートショートの玉手箱

ショートショートや短編小説を書きます。ときどきエッセイも。 中の人: 都内在住の会社員。大体三十歳。

掃除人(グリム童話『ヘンゼルとグレーテルより』)

 男はその遊園地で掃除人を務めていた。園内に落ちている埃やら紙くずやらポップコーンやらを箒で掃いて回る、あの掃除人だ。


 その仕事は一見すると単純で味気のないものに感じられるが、実はとても奥が深い。もちろん、手を抜こうと思えばいくらでも手を抜ける。男の知り合いにも、ただごみを掃いて回るだけの人間はそれこそ掃いて捨てるほどいた。


 しかし男は違った。自らの仕事に誇りを持っていた。


 例えば休日。園内の地面は来場者で埋め尽くされる。彼らの動きを妨げることなく足元のごみを除去することが如何に難度の高いものであるか、あなたに想像出来るだろうか?


 まず、ごみを回収するためには、ごみの落ちている地点まで移動しなければいけない。その過程で、「すみません」だの「失礼します」だのと言って客に気を遣わせるようではプロとは呼べない。彼らの注意を引くことなく、しかも彼らと接触せず目的を達成するのがプロというものだ。


 そのためには、その場と同化することがなにより重要だ。つまり、街路樹や石柱、道端のオブジェになりきる。それらをよけることに抵抗を感じる人間などいない。なんといっても、それは最初からそこにあるのだから。


 そして、プロの掃除人は目的を達成後、素早く次の場所へと向かう。ごみはいたるところに落ちている。こちらでごみを拾っている間に、あちらでごみが落とされるのだ。地面に存在するごみの量を最小化するためには、素早く、かつ的確に持ち場を回る必要がある。


 このように、プロの掃除人となるためには特別の努力が必要とされる。その奥深さにおいては、医者や画家(男は絵が好きだった)、プロ野球選手が求められるものと変わりはない。少なくとも男はそう考えていたし、私としてもそんな気がしないでもない。まあ、しかし、それはどうでも良いことかもしれない。


 さて、ある平日の昼下がりのことだった。


 相変わらず男は、箒とちり取りを手に、園内の地面に目を光らせていた。 その日の男の持ち場はC地区だった。C地区の乗り物は比較的人気が低く、もともと人通りの少ない地域ではあったが、その日は平日ということもあいまって、辺りは男の他に人がいなかった。 男は暇を持て余した。辺りのごみは既に拾い尽くしていた。


 それでも、何周も何周も、自らの与えられた持ち場をぐるぐると回った。 しかし、もう十周は回っただろうから、辺りにはちり一つ落ちていない。ごみが落ちているのではないかという期待とともに、さらに同じ道を通って回っても、やはり何も見つからない。人はおろか、風の気配すらないのだから、それも当然だ。


  同じ道を三十回は通ったかという頃、男は地面に一粒の白い塊を認めた。

 

 ポップコーンだ。


 樹木にカブトムシを見つけた子どものように、男の心拍数は一段上がった。 ああ、あんな所にポップコーンが落ちている。せっかくの綺麗な景観が乱れてしまっては大変だ。それに、お客さんがあれを踏みつけでもしたら、せっかくの楽しい気分を害されるかもしれない。一刻も早く、あの忌々しい塊を取り除いてやらねば。 掃除人は顔を上気させ、目標物との距離を足早に縮めた。


 二十五、十五、十、九、八、七、六… あと一歩というところまでせまったとき、後ろの方でぱらぱらと何かの落ちる音がした。男は不思議に思って我に返り、その正体を確かめようと上半身を捻った。 すると、ひと掴みほどのポップコーンが地面に散らばっている様が目に入った。すぐ近くには一対の足があった。男はそれをなぞるように視線を上へすべらさせた。 その先にあったのは、しわくちゃの老人の顔だった。老人はポップコーンの容器を片手に、地面をじっと見つめていた。


 お気になさらないでください、私が掃除いたしますので。 男はそう言い、散乱した白い粒を手際よくちり取りの中へと集めた。作業を終えると、男は金属製のちり取りをいつもより心持ち勢いよく持ち上げた。ちり取りの蓋が、がちゃりと大きな音を立ててその口を閉じ、男は確かな達成感を覚えた。


 しかし、男がその場を立ち去ろうとした瞬間のことだった。先ほどと同じ量のポップコーンが、老人の手から雪のようにはらはらと落ちたのだ。男は少し戸惑ったが、それを顔には出さず素早く箒を取り出し、黙々とポップコーンを掃いた。


 そして、今度は男がちり取りを持ち上げるよりも少し早く、再びポップコーンが老人の手からこぼれ落ちた。 さすがの男も不審に思った。が、それでも男は何も言わず、淡々と職務をこなした。それが男の役割なのだ。 男は地面を掃きながら、老人の方をちらりと見やった。そして、老人を見て、ついに手を止めた。 老人は、手のひらのポップコーンを故意に落としていたのだ。一定の分量のポップコーンを容器から取り出しては、その塊をはらりと地面にばらまいていた。 男は口を半開きにし、その光景をただ眺めた。 何をしているのだろうかこの人は。ポップコーンをわざと落としているのだろうか。いや、そんなことあるわけがない。とりあえず地面の物を回収しないといけないな。

 

 男は、やはり黙々と体を動かした。長年使い続けた道具には、その先々まで男の神経が行き届いている。それらにはどの程度の長さがあり、どの程度の力を加えればごみがうまく収まるのか、男にはありありとイメージすることができた。男にとって、それは手のひらで物を掴むのと同じ行為なのだ。だから、老人がいくらごみを落とそうと、それを全て集めるのにそれほど時間はかからなかった。


 男がひと仕事終え、ようやくその場を立ち去ろうとすると、老人はポップコーンの入った紙コップを逆さまにした。中のポップコーンは、どしゃ降りのような音を立てて地面に降り注いだ。


 男は確信した。老人の意図はあまりにもはっきりと読み取ることができたので、もはや疑う余地がなかった。


 それでも、老人に文句を言う前に体が動いた。閃光を見ればまぶたを閉じ、ベルの音を聞けば唾液が分泌されるのと同じことだ。それは抗うことのできない、ほとんど強制的な営みだった。


 男がコンクリートの地面を箒でひっかいていると、今度はがさりともう少し大きな音が耳に入った。男は音のする方に目を向けた。すると、老人はまっさらな紙くずを丸めては捨て、丸めては捨てていた。 男の理解を超えていた。男は手だけを動かし、混乱する頭で考えた。


 なんなんだこのじいさんは。人がせっかく掃除をしてやっているというのに。大体、遊園地には一人で来ているのか。辺りに家族はいないのか。呆けてふらふらと迷い込んじまったのか。いずれにせよ、本当になんて神経をしているんだ。そこら中散らかしてどういうつもりだ。こんな輩がいるから世の中は良くならないのだ。性犯罪がなくならないのも年金問題が解決しないのも俺の給料がいっこうに上がる気配がないのも、全てこのじじいのせいだ。ああ、こんな奴この世から消えてなくなっちまえばいいのに。その方がみんなのためだ。こんな奴、生かしておいたところでなんの役にも立ちやしないさ。なんなら俺が今この場でやったっていい。なあに、誰も見てやいないさ。ばれることなんてない。


 しかし男がそれを行動に出すことはない。口を真一文字に結び、自らの責務をただただ忠実に果たし続ける。


 老人は歩き始めていた。そして、どこから取り出したのか、チューインガムや煙草の吸殻、ティッシュペーパーを次々と捨てていった。歩きながらであったので、それらは老人の足跡を辿るように点々と続いた。老人は世の中のごみというごみをどこからか取り出しては下に落とし、男はその少し後ろを追い回すようにしてごみを一つ一つ回収した。道に迷わないよう子どもが落としたパンくずを、小鳥が全て食べてしまう、不気味な童話のワンシーンのようでもある。


 もちろん老人は彼らのように道に迷ってはいないし、男にしても、小鳥の持つ愛らしさからはほど遠いところにいる。ただ、二人を見ていると、あの物語が持つ先の見えない不気味さを連想せずにはいられない。


 男は、老人の後を追ううちに、先ほどの激しい義憤が徐々に静まり、奇妙な快感が自らの脳内へ広がるのを感じた。辺縁系で発せられた快感は脳髄をくぐり抜け、体中にじんわりと染み渡る。男の体はぽかぽかと温まり始めていた。 ああ、なんだか体中が温かい。体の芯から温まる感じだ。そうだな、母親の作ったオニオンスープを冬に飲んだときの、あの感じだ。指の先まで熱が行き届き、眠気にも似た気だるさが襲ってくる。それにしても、あの老人は何者だろう。なぜあんな風にしてごみをばらまくのだろうか。私の迷惑は考えないのだろうか。いや、そもそも、老人は私の存在に気づいているのだろうか。


 男はそう思い、手を止めず、老人へと視線を注いだ。老人は淡々とごみを捨て続けている。アスファルトの上には、大小様々なごみが等間隔に並んでいた。老人は、男はおろか、そのごみに気を向ける素振りさえ見せない。 そうか、あの人も私と同じプロなのかもしれない。仕事の内容こそ違うが、あの躊躇のない、手慣れた動作を見ればわかる。彼もまたプロなのだ。男はぼうっとする頭でそんなことを考えた。


 相変わらず老人はごみを捨て続け、男はその後ろを不格好な小鳥のようについて回った。いつの間にか持ち場を一周し、老人と出会った場所まで戻ってきたようであったが、男の目には映らない。次から次へとごみが捨てられるので、男は忙しいのだ。


 ちり取りは何度か一杯になったが、それはどこかのごみ箱へ捨てればよい話だった。中身をなくすことさえできれば、また新たにごみを収めることができる。とにかく、その場合を除いて、男が老人の背中を離れることはなかった。 ぐるぐるぐるぐる、もう何周回ったことだろうか。日は陰りを見せ始め、オレンジ色の薄い膜が遊園地のアスファルトを覆った。辺りにひと気はなかった。 男はふと、手足が重くなっていることに気がついた。考えてみれば当たり前のことだ。なにしろ、ほとんど半日中ごみを掃き続けたのだから。


 しかし男が動作を止めることはなかった。なぜなら、男はその作業に快感を覚えていたからだ。園内が清潔であろうがそうでなかろうが、男には関係ない。ただただ、ごみを見つけては箒で掃く、という行為自体が楽しいのだ。 男は考えることを放棄し、箒を手に持ち老人の後を追った。


 日が沈み、園内はすっかり暗くなる。男や老人の姿は闇の中へ溶けていく。深い森のような静けさが辺りを覆うと、あとはそれきりだった。

 

 男はもう戻ってはこないのだろう。一度迷い込んでしまえば、二度と森から抜け出すことはできない。誰も手助けはできない。


 せめて私にできることといえば、男が何も気づかないよう祈ることだけだ。男にとっては、いつまでもいつまでも箒を動かし続けることが、おそらくは一番の幸福なのだ。

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杜子春(芥川龍之介『杜子春』より)

 



 ある春の日暮れです。

 花の都・東京のひと気のない公園で、ぼんやり空を仰いでいる、一人の男がおりました。

 名は俊春といって、年は三十をようやく数えたところでしたが、見た目は随分老けて見えます。というのも、元は会社の跡取りだったのが、父親の不幸と自身の失恋とが重なった結果、やけくそなワンマン経営であっという間にそれを潰してしまったからです。周りに罵倒され、借金取りに追いかけられるうち、苦労が重なり老け込んでしまったのです。

 東京といえば、少子高齢化にあえいでいるとはいえ、まだまだ東洋随一の都市です。高くそびえるビル群は、太陽が沈んだ後も、遠くの空を明るく照らしておりました。

 俊春はベンチに身を預けたまま、遠くの方の喧騒を他人事とばかりぼうっと眺めております。実際それは他人事で、もはや自分は、その日のパンにすら困る身分なのです。

「日は暮れ腹も減ったが、自分には帰る場所もない。頼るべき人もいない。ならいっそ、富士の樹海で首でも吊ってやろうか」

 しかし、樹海までの交通費すらないことへ考えが至ると、俊春は息を吐きうなだれました。

 するとどこからやって来たか、目の前で足を止める者がありました。なんだろうと顔を上げると、そこにいたのはサングラスをかけた盲の老人でした。老人は唾がかかるくらいの距離まで顔を近づけると、

「お前は何を考えているのだ」と横柄に言葉をかけました。
「わたしですか」

 ほんの刹那、適当なことを言って老人を追い払おうとも考えましたが、どうもこの老人は、自分の考えを見透かしているようです。それで俊春は、仕方なくありのままを答えてしまいました。

「わたしは、死ぬことを考えておりました」
「そうか」
「しかし、そのための勇気も金もなく、どうしたものかと考えていたのです」
「最近の若い者は、すぐ死ぬことを考えてどうもいかん。ここはひとつ、儂がひと肌脱いでやろう」

 老人はそう言って、道路を挟んですぐの工場を杖で指し示しました。

「あそこに儂の工場がある。そこで仙人風ゆるキャラ・ひげじいキーホルダーを作ってみるがいい。大ヒットすること間違いなし。人も、お金も、お前の元へ再び集まることだろう」

 俊春は驚いて、目の前へ視線を戻しました。ところが不思議なことに、盲目の老人はどこへ消えたか、影も形も見当たりません。辺りの闇は深くなり、その分ますます、遠くに見える都会の光は華やいで見えました。

 



 俊春はまたたくまに、国内でも並ぶ者のない大金持ちになりました。老人の言葉通り、工場にあったひげじいキーホルダーを売ってみたところ、若者を中心に大ヒット。漫画化、アニメ化、小説化。ハリウッドでは映画され、海外にまでHIGE・Gの名を知らしめたのでした。

 大金持ちになった俊春は、田園調布のど真ん中に立派な家を買って、政治家にも負けない位、ぜいたくな暮らしを始めました。綺麗な恋人を何人も作ったり、毎日ホームパーティーを開いたり、自家用ジェットを庭に置いたりと、その贅沢を一つ一つ取り上げていては、それだけで聞き手が羨ましくて憤死してしまうほどです。

 SNSを中心に噂は拡散し、卒業以来交流の途絶えていた友人さえ、遊びにやって来るようになりました。そして、それが別の友人を呼び、さらにそれがまた別の友人を呼んで、俊春のアカウントのフォロワー数は、かのアメリカの大統領をも抜きました。俊春の取り巻きは、笑顔で頷く者で埋め尽くされました。

 しかしいくらお金持ちでも、所詮この世は盛者必衰。ブームが去ると、イエスマンばかりの俊春の会社はあっけなく倒産してしまいました。周りの人間は我先と沈む泥船から脱出し、気づけば俊春は、あの日と同じ公園に一人佇んでおりました。

 さて、すると以前と同じように、盲目の老人がどこからか姿を現わして、
「お前は何をしとるのだ」と声を掛けてくるではありませんか。

 俊春は、恥ずかしさと、久しぶりに人と話した嬉しさとで、下を向いたままもじもじとしておりました。が、老人はぶっきらぼうに、しかし優しさの混じった声で同じ言葉を繰り返すので、こちらも前と同じように、

「人も金もわたしを見捨ててしまったので、死ぬことを考えておりました」と答えました。
「お前はどうも、すぐ死ぬことを考えてしまう。ここはひとつ、儂がひと肌脱いでやろう」

 老人はそう言って、交差点にある建物を杖で示しました。

「あそこには、仙人印の健康水素水が――」

 あとは昔と同じです。仙人印の健康水素水は、飲めば長寿と、ワイドショーや週刊誌、ネットで話題騒然となりました。人も金も俊春の元へ舞い戻って来ましたが、粗悪な類似品が市場に出回ったところ、「仙人風味の健康水素水に科学的根拠なし」の報道が行われました。それをきっかけに返品が相次ぐと、また一文無しの友達無しになってしまいました。

 



「お前は何を考えているのだ」

 盲目の老人は、俊春の前へ来て、同じことを問いかけました。もちろん彼はその時も、東京のひと気のない公園でぽつんと一人、沈みゆく西日を眺めていたのです。

「わたしですか。ほとほと疲れ果ててしまったので、死ぬことを考えておりました」
「お前はどうもいかん。ここはひとつ、儂がひと肌脱いでやろう。そこのところに、人の心を見透かす眼鏡があってだな――」

 老人がこう言いかけたところで、俊春は急に手を上げて、その言葉を遮りました。

「お金はもういらないのです」
「なるほど、贅沢をするには飽きてしまったと見えるな」
「いえ、贅沢に飽きたのではありません。おいしい食事は好きだし、美女と戯れるのはもっと大好きです。けれどわたしは、人間というものに愛想が尽きたのです」
「どうして愛想が尽きたのだ」

 老人は、サングラス越しに俊春を見つめてきます。盲のためか、サングラスに透けて見える両眼は視線があちこち散らかっていますが、こちらの心の内をしっかり見据えています。俊春は、胸の中のごつごつした言葉を、そのまま取り出して言いました。

「人間は皆薄情です。事業がうまく回り、金のある時は皆へぇへぇ後ろをついて来ますが、ひとつコケてしまえば、くるりと掌を返してしまいます。友達も恋人もわたしから距離を置き、気づけばいつも取り残されてしまいます。たとえ再び大金持ちになったとしても、きっとわたしは、その恐怖から逃れることが出来ません。笑いながら内心びくびくし、人を疑い生きていくことになるでしょう。そんなのむなしいし、疲れるだけです」

 老人は俊春の言葉を聞くと、急ににやにや笑いだしました。

「お前はなかなか、物事のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、つつましく暮らしていくつもりか」
「いえ、それもいまのわたしには出来ません」
「それではどうするつもりだ」
「あなたの弟子にして頂きたいのです」
「儂の弟子?」
「そうです、あなたの弟子です。わたしにはわかっているのです。あなたはきっと、徳の高い仙人でしょう。そうでなければ、いままでわたしにしてくれたことの説明がつきません。なんとかわたしに、不思議な仙術を教えてくれはしませんか」

 老人は、サングラスの向こうで瞑想し、しばらくは黙って何事か考えているようでしたが、
「いかにも儂は仙人だ。弟子を取ることはしないつもりだったが、初めて会った時から、どうもお前が気になっておった。なんとなく放っておけないのだな。よかろう。そこまで望むなら、お前に修行をつけてやろう」

 俊春の喜びようといえばたいそうなものでした。全身を天に向け伸ばし、歓喜の声をあげるのです。これには仙人も、思わず苦笑いです。しかしやがて顔を取り正すと、俊春に対しはっきりこう言いました。

「喜ぶにはまだ早い。いくら儂の弟子となったところで、立派な仙人になれるか否かは、お前次第なのだから。まずは一緒に、そこの山まで一緒に来てみるがいい」

 そう言って仙人は、通りがかりのタクシーを呼び止めました。それを見て俊春は「空を飛んだりはしないのですね」と言いました。

「撮影でもされたら厄介じゃろが」

 悠々とタクシーへ乗り込む仙人の背中を眺め俊春は、「本当に仙術を身に付けられるのだろうか」と一抹の不安を覚えました。

 



 二人を乗せたタクシーは、山中の道なき道をくねくね曲がり、崖を落ちそうになりながら、ようやく目的地へたどり着きました。目の前には粗末な建屋があります。

「さあ、遠慮せずに入るがいい」

 仙人は俊春を招き入れます。俊春が何気なく振り返ると、いつの間にかタクシーは姿を消していました。

 建屋には、炉と、それを囲むように敷き詰められた畳があるだけで、あとは見事に何もありません。そして、二人横になれば、寝返りを打った瞬間身体をぶつけてしまいそうなほど狭いのです。

「どれ、儂は夕飯を採りに山へ行ってくる。その間お前はここに座り、儂の帰りを待つがいい。儂がいなくなれば、辺りの魔性がお前をたぶらかそうとするだろうが、たとえ何が起ころうとも、決して声を出してはいけないぞ。もし一言でも口をきけば、お前は仙人になるのを諦めなくちゃいかん。いいか、大事なことだからもう一度言う。決して声を出してはいけないぞ」

 これは、逆にそういう「フリ」なのだろうか。「駄目だ」と釘を刺しておきながら、暗にそれを行動に移すよう示唆する、最近流行のテレビのネタなのだろうか。

 弟子になれた嬉しさから、俊春は軽口を叩こうとしましたが、仙人の厳かな表情を見ると、そんな気もすぐに失せてしまいます。俊春は居住まいを正し、畳の上に座り込みました。

 そして、十分ほど経った頃でしょうか、

「お届け物です」と扉を叩く音がするではありませんか。驚き目を開くと、粗末な木戸は、いまにも壊れそうなばかりに揺れています。つい返事をしかけましたが、「これは魔性の仕業に違いない」と喉の奥へぐっと押しとどめました。

 さらに、また十分ほどすると、今度は「NHKです」と扉を叩く拳の音がするではありませんか。これには俊春も驚き、「仙人のくせに受信料も払っていないのか」「代わりに俺が払ってやろうか」「いやいや俺はいま一文無しの修行の身だった」といった考えが頭の中を去来しました。

 そうこうする内、NHKの集金の気配もぱったり消えてしまいました。その後も、小学生のピンポンダッシュ、宗教・新聞の勧誘、話し相手を探し求める近所のおばさん等と、おおよそこの山奥には似つかわしくない人々が訪れては、建屋の戸を叩いていきました。魔性ももう少し、それらしい工夫を出来ぬのか。俊春はうっすら苦笑いを浮かべ、畳の上に座しておりました。

 そんなことが続き、そろそろうとうとしかけた時のことです。

 再び扉を叩く音が響きました。しかし今度は、なにやら様子が違います。拳の音はひどく粗野で、暴力的で、今にも扉を突き破らんばかりでした。

「強盗だ。中に居るのか、居ないのか。いいや、居るのはわかっているぞ。息をひそめ、俺の様子を窺っている。この場を去り、すぐにその身を引かぬかと。しかし、そういうわけにはいかぬのだ」

 強盗は思い切り力を込めると、そのまま扉を倒してしまいました。

 俊春は初めおろおろと狼狽していましたが、「そうだこれも魔性のまやかしに違いない」と考え、狸寝入りをしてしまいました。

 しかし、家に押し入った強盗が、立ち去る気配はまるでありません。俊春のすぐそばに立ち、「寝たふりの下手な奴だ。いますぐ起きて、金の在り処を教えるのだ」と野太い声で脅しつけてきます。

 もちろん俊春は、仙人の言いつけを守り、返事をしないでおきました。

 ところがまたしばらくすると、「どうしても返事をしないつもりだな?」と強盗が問いかけてくるではありませんか。俊春はつられて、「その通りだ」と危うく返事をしかけましたが、喉の奥でぐっとこらえてみせました。

「よかろう。これでも返事をしないでいられるか」

 強盗はそう言うと、小屋の外から他の者を引っ張ってきました。なにやらその声には、聞き覚えがあります。

「さて、もう一度問いかけよう。この家の財宝の在り処を答えるのだ。さもなければ、お前の母はこうだぞ」

 ひゅっと風切り音がしたかと思うと、鞭を打ち付ける音と、女性の悲鳴が響き渡りました。

 目を開き振り返ると、そこにいるのは、俊春が高校生の時分にこの世を去った母ではありませんか。家を空けがちな父の分まで、俊春へ愛情を注いでくれた母ではありませんか。その母が、ぼろ雑巾のような衣服を身にまとい、背中から血を流しています。

「ようやく起きたな。どうだ? 財宝の隠し場所を吐く気にはなったか?」

 俊春は、それでも黙っておりました。

「まだ打ち方が足りないと見える」

 強盗はそう言うと、鞭を取り、母の背中を容赦なく打ちつけました。何度も何度も、執拗に。打ちつけられるたび、母は悲痛な叫びをあげ、引き裂かれた皮膚の表面には、白い骨がうっすら露出しています。

「どうだ、まだ白状する気はないか」

 強盗は鞭の手を止め、俊春へ問いかけました。俊春は目を瞑り、必死になって仙人の言葉を思い出しています。そうでもしなければ、いますぐにでも声を出してしまいそうです。

 するとどうでしょう。ほとんど葉擦れのような微かな声が、風に乗って彼の耳まで届きます。

「俊春や、立派になったね。昔はあんなに弱虫だったのに。いいよ、わたしのことは心配しないでおくれ。わたしはどうなっても、あなたは自分の決めたことを貫きなさい」

 懐かしい母の声でした。

 はるか昔に遠くへ旅立った、母の声でした。

 思わず目を開けると、目の前では、母が息も絶え絶えに横たわっています。その眼には、昔と変わらぬ優しい光が、俊春を慈しむように宿っています。母はこの苦しみの中にも、息子の心を思いやり、強盗に鞭で打ちつけられることを、恨む気色さえ見せないのです。金のある時はお追従し、金がなくなればあっという間に消えてしまう世間の人間と比べると、なんと温かい心でしょう。なんと柔らかく、広い心でしょう。俊春は仙人の戒めも忘れ、母の元へ近寄ると、両手に必死に母の身体を抱いて、「お母さん」と一声叫びました。

 



 その声に気が付いてみると、俊春は一人、落日の公園に佇んでいるのでした。夕焼けに染まる空、急ぎ足で家路に着く勤め人、高くそびえる遠くのビル群。全てが仙人の小屋へ行く前と同じ様子です。

「どうだ。儂の弟子になったところで、とても仙人などなれやすまい」

 盲の老人は、微笑みを含みながら言いました。

「なれません。けれど、仙人になれなかったことが、わたしにはかえって嬉しい気もするのです」

 俊春は目に涙を浮かべ、老人へ微笑み返しました。

「鞭を受ける優しい母を見て黙っていることなど、わたしには出来るはずもありません。わたしは、仙人などとは程遠い、凡庸な男のようです」
「もしお前が黙っていたら」

 老人は急に厳かな顔になって、そして、例の盲の目で、俊春をじっと見据えました。

「いや、これ以上はよしておこう。ところで、お前はこれからどうするつもりだ?」
「欲におぼれず、普通に、人間らしい暮らしをするつもりです。適当なところで働き口を見つけ、のんびり暮らしていこうと思います」
「よしきた。その言葉を忘れるな。儂は今日ぎり、お前とは二度と会わないから」

 仙人はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に足を止めて俊春の方を振り返ると、

「そういえば、山形の小さな町に、『仙人チェリー』という農園を一つ持っている。そこに口を用意しておくから、もしよければ、いますぐ行って職を求めるがいい。ちょうど今頃は、農園いっぱいに果実の匂いが溢れているだろう」と、さも愉快そうに付け加えました。

蜘蛛の糸(芥川龍之介『蜘蛛の糸』より)


 ある日のことでございます。

 

 釈迦崎社長は、牛革の椅子にふんぞり返り、独りで暇を持て余しておりました。

 

 窓の外には、高層ビルがあちこちにょきにょき生えていて、いまにも空を突き破らんばかりです。けれども、どんなビルも釈迦崎社長より上にはありません。釈迦崎社長の座る場所は、周りの誰より高く、隣のビルや地面に目をやれば、見下ろさずにはいられません。遠くに見える人々は、まるでミニチュアのようにあくせく動き回っています。

 

 釈迦崎社長は、大きく一度あくびをすると、テレビの画面をつけました。表情を変えず、脂の乗った太い指先で端から順にボタンを押していきます。テレビは、リモコンの指示に忠実に、その画面を変えていきます。どれもこれも代わり映えのしないワイドショーばかりで、釈迦崎社長の気を引くものはありません。

 

 しかしあるところで、釈迦崎社長の動きが止まりました。

 

 映し出されているのは、就職活動を取り上げた特集番組でした。

 

 真夏のオフィス街を、スーツ姿で歩き回る学生たち。彼らは、地を這うようにして、汗をかきかき、会社という会社を訪ねて回ります。それでもこの不況下、内定を得ることは容易ではありません。


 中には、百社も回り、それでも駄目な学生というのもおりました。何の取柄もなく、大学四年間取り立てて努力もせずにいたのですから、当然といえば当然の報いです。顔つきひとつ取っても平凡で、テレビの画面が切り替われば即座に忘れてしまいそうなくらい、彼らの印象は薄弱でした。


 けれども、たったひとつ、彼らには善いところがありました。

 


 それは、彼らが非常に利他的であるということです。

 


 時代の流れなのでしょうか。彼らは異口同音に、「社会の役に立ちたい」「環境に優しい仕事をしたい」「人々を幸せにしたい」などと言うのです。中には、「母子家庭だったので稼いだお金で母親に恩返しをしたい」という殊勝な学生もおりました。


 釈迦崎社長は、テレビの特集を観ながら、思わず感動し、涙しました。そうして、出来ることなら、彼らの善い心に報いてやりたいと考えました。


 となれば話は早いものです。釈迦崎社長は受話器を取ると、人事部の蜘蛛原部長へ電話を掛けました。


「蜘蛛原君は、いまのを観たかね?」
「なんのことでしょう」
「就職活動の特集番組だよ」


 釈迦崎社長は、仕方なくその内容を事細かに説明してみせました。受話器の向こうには喧騒があり、蜘蛛原部長はいまにもため息が出んばかりの返事をしておりますが、釈迦崎社長に気づく様子はありません。


「そこでだ」と、釈迦崎社長は仰々しく喉を鳴らしました。「彼らを採用してやろうと思う」
「お言葉ですが、今期の採用活動は、この前の春に終わりました」
「なんと。追加で取れないものか」
「予定人数もあるので、そんなには取れません」
「そんなにとは何人だ?」
「一人です」
「なんと」


 釈迦崎社長は唸り込んでしまいますが、やればなんとかなるだろう、いまの若者を見て蜘蛛原部長も考えを改めるだろうと、すぐに気を取り直しました。


「一人でも構わない。まずは募集をかけるのだ」
「わかりました」


 こうなっては何を言っても無駄というものです。蜘蛛原部長は、壁にある『思いついたが吉日』という社是を恨めし気に見つめ、ついに首を縦に振りました。そうして、電話を切った後、部員に声を掛け、重い腰を上げました。


 そうとは知らぬ釈迦崎社長は、善意に満ちた表情で、満足げに椅子にふんぞり返っています。部屋に取り付けられた白銀の装置からは、ひんやり冷たい空気が、絶え間なく辺りへ溢れておりました。

 

 


 さてこちらはアスファルトで覆われた真夏のビジネス街で、リクルートスーツに身を包み靴底をすり減らしていた神田太郎です。どちらを見てもビルばかり。その全てが神田太郎めがけて太陽の光を反射させるのですから、その暑さといったらありません。辺りには、神田太郎と同じようにリクルートスーツに身を包んだ学生がうごめいていて、微かなため息がその口々に漂っておりました。


 暑さに耐えかねた神田太郎は、息も絶え絶え近くのスターバックスへ飛び込みました。


 そして、注文を終え、カップ片手にスマートフォンを開いた時のことです。なにげなく求人サイトを開いてみると、『ヘブンズ工業:追加募集』の文字が躍っているではありませんか。ヘブンズ工業といえば、学生の間ではとりわけ人気の高い就職先です。定時退社は当たり前で、有給含め年間百七十日の休日、福利厚生は充実。それでいて社員の平均年収は一千万円を超えるというのですから、まさに天国のような場所です。


 そんな企業が、いまから募集をかけるというのです。きっと春に内定した学生のうちに、辞退する者でもあったのでしょう。神田太郎はそれを見て、内心拳を握りました。一般的に、春と比べて夏の採用は通りやすいのです。なぜなら、企業は欠員補充をしようと必死な一方、学生の内で既に内定を掴んだ者たちは、学生生活最後の夏休みを満喫しようと旅行やサークルに励んでいるからです。


 神田太郎が目の前にぶら下がった糸へ飛びつくと、そこからは早いものでした。当初のもくろみ通り、ライバルがいないためトントン拍子に試験は進みます。履歴書、一次面接、二次面接と、神田太郎は順調に通過していきました。散々面接で落とされた経験も無駄ではなかったようです。過去の反省を生かし、途中で振り落とされてしまわぬよう、しっかりと合格へ近づいていきます。


 必死に取り組んだ甲斐もあり、あとはグループワークと最終面接を残すのみとなりました。この調子でいけば、ヘブンズ工業の内定まであとひと息です。神田太郎は、就職活動を始めて以来、久しぶりに笑みを浮かべました。


 ところが、グループワークを迎えた日のことです。


 会場に指定された千野池駅最寄りの針山体育館へ着きますと、選考に残った学生が所狭しとひしめいているではありませんか。神田太郎はこれを見て、冷たい汗が背中をひやりと伝うのを感じました。


 いくらなんでもライバルが多すぎます。追加募集の枠はせいぜい数名といったところでしょうから、これだけの学生が一度におしかければ、その過半は試験に落とされてしまいます。そうすれば、再び一からやり直しです。履歴書を書き、何度も面接を受けてと、気の遠くなるような道のりです。第一、それで内定を得られる保証もありません。内定のないまま大学を卒業する羽目になるかもしれないのです。


 そう考える間にも、次から次へと学生たちは押し寄せてきます。そうして、体育館に用意された椅子という椅子が埋まりきったところで、恰幅の良い人事部長が、壇上へ気だるげに姿を現わしました。


「人事部長の蜘蛛原です。これよりグループワークを始めます」


 蜘蛛原部長が話を始めると、学生たちの雑談がぴたりと止まりました。体育館の中は波を打ったように静かになり、蜘蛛原部長の声だけがマイク越しに響きます。


「本日は、グループごとに課題へ取り組んで頂き、その取り組みを評価いたします。なお、最終面接へ進むことが出来るのは各グループ一名ずつです」


 蜘蛛原部長がそう言うと、学生の内にざわめきが起こりました。ある学生の動揺は、別の学生の動揺を誘い、その学生の動揺はこれまた別の学生の動揺を誘います。あとがないのは、神田太郎だけではないのです。


 動揺はまたたく間に伝播し、会場中を疑心暗鬼と不安とが覆いました。学生たちは互いの様子を探り合い、ライバルたちの値踏みを始めます。人間関係というものは、いとも簡単にヒビが入るものなのです。


 実際に試験が始まると、足の引っ張り合いは凄絶を極めました。


 試験は、すごろくにパズルの要素を組み合わせたようなものでしたから、各々が知恵を絞り、なんとか相手を出し抜こうと死力を尽くしました。試験が進み後半ともなると、もはや勝負は見えてきます。罵り合う声に混じり、すすり泣く声がそこかしこから聞こえてきます。どういうことか殴り合いまで始まり、なんとか人事部長のポイントを稼ごうと仲裁に入った学生が、気づけばその中心で大暴れをしているという有様です。このままでは共倒れです。いまのうちになんとかしなければ、試験は中止になってしまいます。


 神田太郎は、下心と共に蜘蛛原部長の方をちらりと横目でみやり、他のライバルに差をつけようと大きな声を出しました。


「こら、きみたち。醜い争いはやめたまえ。きみたちは一体なんのために、この会場へやってきたのだ。やる気がないのなら帰ってしまえ」

 

 

 決まった。

 

 

 神田太郎は、内心ほくそ笑みました。蜘蛛原部長だって、きっと感心して神田太郎を採用するに違いありません。


 しかし、「バカやろう」という心ない罵声が飛ばされると、それを皮切りに「カッコつけるな」「この偽善者め」「同情するなら内定くれ」といった悲喜こもごもの感情が、神田太郎めがけて飛ばされました。売り言葉に買い言葉で神田太郎も応じれば、状況は以前に逆戻りです。あるいは、もっと悪くなったかもしれません。もはや止めようとする者は誰もいませんでした。


 醜い争いが最高潮に達した時のことです。それまで何ともなかった蜘蛛原部長がマイクを取り、静かに試験の中止を告げました。神田太郎やその他の学生たちは、その言葉に我に返ると、あっという間に奈落の底へ落ちてしまいました。


 後にはただ内定を持たぬ学生たちが、真夏の体育館に残っているばかりでございます。

 

 


 釈迦崎社長は冷房のきいた自室にふんぞり返り、この一部始終をじっと見ておりましたが、神田太郎が出しゃばったところで悲しそうな御顔をし、蜘蛛原部長へ電話をかけました。蜘蛛原部長は用件を承ると、その指示通り、学生たちへ試験の終わりを告げました。


 他人を思いやる心を持たず、自分ばかり受かろうとする無慈悲な学生たちが、釈迦崎社長には浅ましく映ったのでしょう。先日の特集に出ていた若者たちとは、えらい違いです。


 しかし釈迦崎社長は、テレビをつけるとすぐにそんな事は忘れてしまいました。画面には流行りのラーメン屋が映し出され、器からはゆらゆら湯気が立ち、その中にある金色のスープからは、なんともいえない良い匂いが漂ってくるようです。すると、釈迦崎社長のお腹がぐうと大きく鳴りました。


 そろそろお昼も近くなったのでございましょう。

芋粥(芥川龍之介『芋粥』より)

 SNSが社会的地位を確立した時代の話だ。SNSは人々の生活に欠かせないものとなり、一国の大統領ですら、自らの思想をSNSで呟く。そんな時代の話だ。


 その中に、五味という名の男があった。そして、それ以上特筆すべきことは特にない。学生時代の卒業アルバムを見ても、彼の姿はほとんど見当たらず、集合写真にようやくその姿を認められるのみだ。あるいは、集合写真でさえ、男の影を探し当てることは困難だった。まるで蛙の擬態で、それが彼の生きる知恵だったのかもしれない。

 

 そんな男の歩む人生といえば、たいてい相場は決まっている。冴えない学校を卒業し、冴えない会社へ就職。その中でもさらに冴えないポジションを与えられ、よれたグレーのスーツで、満員電車の通勤を毎日往復四時間繰り返す。二十五の頃、何かの間違いで結婚出来たのは奇跡に近い話であったが、それも、妻と一人娘に厭われ無視される現実を見れば、幸せに寄与したとは言い難い。


 そもそも、「五味」という苗字に生まれついたのが、彼にとっては運の尽きであった。同級生や同僚たちからは、うす笑いを頬に「ごみ」と呼びつけられ、実際それに違わぬ待遇を受け続けてきた。


 しかし、彼はそのような揶揄や嘲笑に対し、一体全くの無感覚であった。少なくとも、周囲の人間にはそう映った。男は何を言われても、泣くのか笑うのかわからぬ笑顔を浮かべ、「やめてくださいよ」と言うだけであった。彼自身、誹謗中傷に憤慨するだけの勇気や気力はとうの昔に捨てており、周囲の言葉は全て「イジり」として理解するしか術がなかった。


 では、男はただ軽蔑されるためにのみ生まれてきた人間で、「希望」の二文字とまるで無縁だったかというと、そうではない。


 五味は、ブログを主催していた。そして、いつの日か、そのブログがバズることを夢見ていた。何百万というアクセスを集め、日本中の人々から注目されることが、彼の願いとなっていた。彼自身、どこまで自覚的であったかはわからない。しかし、毎日のアクセス数をこっそりチェックすることが、ほとんど唯一の心の支えとなっていた。

 

 さて、この願い。


 意外にも、容易に実現する運びとなった。

 

 それは、いつもと同じ日のことであった。


 いつものように、会社では仕事の出来ぬことを冷笑され、家では家畜以下の冷や飯を与えられ、ようやく寝床へついたときのことだ。


 五味が何気なくブログを開くと、一通のメッセージが届いていた。曰く、

 1:もも
 件名:名無し
 はじめまして☆
 いつも楽しくブログ読んでます!
 管理人さんのアドレスへメールを送りました。
 そちらをみてください!

 

 五味は、「1を@に変えてください」とスパム対策までして自らのメールアドレスをページに載せていた。ただ、当然誰からも連絡はなく、スパムメールすら届くことがなかったので、自分自身その存在を忘れていたほどだった。眉をひそめてメールボックスを開くと、そこへ一通の新着メールを認めた。そして、震える手でその中身を開封した。

 件名:ブログの掲載
 突然の連絡すいません。わたし、アイドルをやっている桃田モカと言います!テレビとかに出てるの見たことあるでしょうか。
   
 実はわたし、「無名中年の徒然日記」の大大大ファンなんです! なんていうか、無名さんのふにゃけた文章を見ていると、こっちまで肩の力が抜けてくるっていうか、失敗したりイヤなことがあってもまあいいかな、ってなんだかラクな気持ちになるんです。


 だから、そんな無名さんの日記を、わたしのファンにも知ってもらいたいなって思って、もしよければ、ツイッターとかで紹介させてもらっていいですか? 自分で言うのも変ですけど、わたしがツイッターで呟けば、アクセス数がすごく伸びちゃうと思います。もし迷惑じゃなければ、ぜひ紹介させてください!

 

 読んでいて、手が震えた。


 心臓は、バクバク音を立てている。久しく忘れていた感覚で、このまま放っておけば破裂するか止まってしまうんじゃないかと思うほどだ。


 震える手で桃田モカのことを調べ、受け取ったメッセージは、どうやら確からしいと五味は結論付けた。生まれてから現在まで、周囲の悪意にさらされ続けてきた彼は、人一倍警戒心が強かった。甘い話は、まず疑ってかかるのが常であった。


 しかし、インターネットで調べたところ、「桃田モカ」という女性は、今をときめく実在のアイドルで、ツイッターフェイスブック、インスタグラムの全てでひっきりなしに更新を続けていた。「気になるブログがあるので紹介したいと思ってます!」「現在管理人さんの許可まち☆」という投稿もあったので、まず間違いないだろう。


 五味は、SNSには疎かった。しかし、百万、二百万という彼女の友達の数を見れば、その影響力は感覚的に理解することが出来た。彼女が推薦した瞬間、「無名中年の徒然日記」は一躍脚光を浴びるに違いない。


 そうなれば、アクセスは倍増どころか百倍増。あれよあれよと人々が押し寄せ、ブログの貧弱なサーバーはダウンしてしまうかもしれない。そして、雀の涙ほどあったアフィリエイト収入は、五味の本業、すなわちサラリーマンとしての収入を超えるかもしれない。


 夢想、妄想、空想が、次から次へ浮かんでは消えていく。その表情を妻や娘に見られようものなら、またいわれなき迫害を受けるに違いない。五味は布団をかぶると、もぞもぞと手元の携帯電話を操作した。 

 

 件名:Reブログの掲載
    初めまして。無名ブログの管理人です。   
 桃田さんに当ブログをご紹介頂ける件、ぜひぜひお受けさせて頂きたく思います。というより、むしろ、ご紹介頂けてこの上ない幸せです! なにせ、ご存知の通り、当ブログは日陰も日陰、日が当たらなさ過ぎて苔が生えかけているものですから(汗)


 新着記事を上げるタイミングになったら連絡致します。そのタイミングで皆様へ告知頂ければ幸いです。どうぞ宜しくお願い致します。

 

 

 五味は桃田モカへの文章を打ち終えると、二度三度推敲し、携帯の薄明かりに照らされ、満足げに頷いてから送信ボタンを押した。興奮のあまり、男はその夜眠ることが出来なかった。


 ようやく瞼が重くなったのは、鳥たちが外でさえずりを始めた頃のことだった。


 それから数日間、五味はほとんどうわの空で過ごした。元々うわの空ではあるのだが、その週は、さらに輪をかけてひどかった。職場でコピーを命ぜられれば部数を間違ったし、家でゴミ捨てを頼まれれば見事にそれを失念しておいた。遂に痴呆が始まったか、と周囲は嘲笑交じりのため息をついたが、それは五味の知るところではなかった。彼の頭を支配していたのは、ただ、どういう記事を上げるか、それがバズったらどうなるか。その二点だけであった。


 そして、いつも通りの週末土曜昼。携帯でポチポチとブログ記事を桃田モカへのメッセージを作成し終え、あとはそれを送信するだけ。その段まできて、五味は指の動きを止めた。


 あと二度か三度。手元の携帯の画面を操作すれば、きっと自分の人生は変わる。ブログでバズりたかったという長年の夢を叶えるだけでなく、富と名声もこの手に収めることが出来るだろう。ひょっとしたら、人気ブロガーということでテレビにだって出られるかもしれない。皆から疎んじられてきた人生にピリオドを打てる。


 しかし同時に、それと真逆の考が五味の頭へ浮かんできた。――本当に、良いものか。こうもあっさり、夢を叶えてしまって良いものか。


 五味はそれに対する答えを有していなかった。とはいえ、ここまできてしまったのだ。桃田モカには、次の記事を取り上げても良い旨返事をしてしまっていたし、実際、そのための記事も既に書き上げてしまった。もはや、後戻りすることは考えられない。

 

 後戻りは、出来ないのだ。
 
 五味は大きく息を吐いてから、ブログ記事のアップ、それと桃田モカへのメール送信とを、えいやと行った。ボタンを押し、送信が終了するまで、画面を直視していられなかった。そして、そのいずれもが終了すると、携帯を投げ出し、そのまま散歩へ出てしまった。

 

 外では犬の糞を踏んづけるわ、高校生と肩がぶつかり睨みつけられるわと散々だったが、それもさほど気にはならなかった。

 

 そして、散歩から帰り、ひと寝入りしようとして、どうしても寝付かれず、ようやく携帯へ手が伸びた。

 

 すると、ブログが示す数字は、見慣れぬ桁まで達していた。フェイスブックで共有された数は五万、ツイッターで呟かれた回数は十万、「イイね」を押された回数に限って言えば、ゆうに百万超え。アクセス数へ目をやると、その数なんと二百万に達しており、アクセス数を時系列に示したグラフは、今日の日付のところだけぴょこんといびつに飛び出していた。

 

 五味が阿呆のように口を開けている間にも、アクセス数は際限なく増え続けていく。きっと、桃田モカのアカウントを感染源にして、五味のブログがウイルスのように日本中へ広がっているのだろう。

 

 五味は、携帯の画面を前にして、額にかいた汗を拭いた。

 

 こう簡単に実現してしまって良いものか。

 

 今までの苦労はなんだったのか。五味は、これまでの十五年間、毎週欠かさずブログを更新してきたのだ。それで、累計のアクセス数は三万と五千二百。しかし、桃田モカが、楽屋の待ち時間か何かに指先でちょいちょいと宣伝しただけで、アクセス数は二百万を突破してしまった。昨日までのアクセス数を示す棒グラフが、それこそゴミのように薄っぺらく見える。なんだかそれは、自分の薄っぺらさを表わしているようにも思えた。

 

 もちろん、いままでの努力があったからこそ、ブログは桃田モカの目に留まったのだろう。本来、それが妥当で、正当な評価だ。

 

 だが、どうしても、五味には、その考えを素直に受け入れることが出来なかった。現実離れした出来事に、頭がついていっていなかったのかもしれない。あるいは、桃田モカが、せいぜい二十歳かそこらの小娘ということもあったかもしれない。

 

 五味がそんなことをぐるぐる考えている間にも、アクセス数はどんどん伸びていく。そして、ついに三百万の大台にまで達してしまった。五味が十五年かけて積み重ねたアクセス数の百倍だ。もし一か月続けば、その数なんと一億弱。アフィリエイト収入は、とんでもないことになるだろう。

 

 時間が経っても、アクセス数が衰えることはなかった。むしろ、話題が話題を呼び、テレビ番組でも取り上げられたせいで、アクセス数はさらに加速度的に伸びていった。コメント欄は賞賛と誹謗中傷といたずら書きとが混在していて、読んでいるだけでも気分が悪くなった。彼のブログを好いてくれていた古参の常連も、もはやその姿を見つけ出すことは出来なかった。

 

 昔へ戻りたい。

 

 一週間が経った頃、桃田モカから再び連絡があった。曰く、「もし良かったら、投稿のたびに呟いてもいいですかあ?」

 

 五味は、その画面を眺めながら、彼女と出会う前の自分を、懐かしく振り返った。それは、同僚や、家族に軽んじられている彼である。取るに足らぬ鈍物として、すれ違うたび、背中を指を差し笑われる彼である。職場では窓際へ追いやられ、家では娘と同じ洗濯機を使わせてもらえぬ、哀れで孤独な彼である。しかし、同時にまた、ブログで名を馳せたいという希望を、胸の内にただ一人守っていた、幸福な彼である。

 

 五味は桃田モカの申し出を固辞すると、「無名中年の徒然日記」を全て削除してしまった。そして、名を変え、新たにブログを開設し直した。

 

 新たに付けた「風のゆくまま気の赴くまま」というブログタイトルが、目の前の画面に煌々と光っている。まだ何も投稿されていない空のページを見て、五味は疲れたように小さく笑った。