ショートショートの玉手箱

ショートショートや短編小説を書きます。ときどきエッセイも。 中の人: 都内在住の会社員。大体三十歳。

蜘蛛の糸(芥川龍之介『蜘蛛の糸』より)


 ある日のことでございます。

 

 釈迦崎社長は、牛革の椅子にふんぞり返り、独りで暇を持て余しておりました。

 

 窓の外には、高層ビルがあちこちにょきにょき生えていて、いまにも空を突き破らんばかりです。けれども、どんなビルも釈迦崎社長より上にはありません。釈迦崎社長の座る場所は、周りの誰より高く、隣のビルや地面に目をやれば、見下ろさずにはいられません。遠くに見える人々は、まるでミニチュアのようにあくせく動き回っています。

 

 釈迦崎社長は、大きく一度あくびをすると、テレビの画面をつけました。表情を変えず、脂の乗った太い指先で端から順にボタンを押していきます。テレビは、リモコンの指示に忠実に、その画面を変えていきます。どれもこれも代わり映えのしないワイドショーばかりで、釈迦崎社長の気を引くものはありません。

 

 しかしあるところで、釈迦崎社長の動きが止まりました。

 

 映し出されているのは、就職活動を取り上げた特集番組でした。

 

 真夏のオフィス街を、スーツ姿で歩き回る学生たち。彼らは、地を這うようにして、汗をかきかき、会社という会社を訪ねて回ります。それでもこの不況下、内定を得ることは容易ではありません。


 中には、百社も回り、それでも駄目な学生というのもおりました。何の取柄もなく、大学四年間取り立てて努力もせずにいたのですから、当然といえば当然の報いです。顔つきひとつ取っても平凡で、テレビの画面が切り替われば即座に忘れてしまいそうなくらい、彼らの印象は薄弱でした。


 けれども、たったひとつ、彼らには善いところがありました。

 


 それは、彼らが非常に利他的であるということです。

 


 時代の流れなのでしょうか。彼らは異口同音に、「社会の役に立ちたい」「環境に優しい仕事をしたい」「人々を幸せにしたい」などと言うのです。中には、「母子家庭だったので稼いだお金で母親に恩返しをしたい」という殊勝な学生もおりました。


 釈迦崎社長は、テレビの特集を観ながら、思わず感動し、涙しました。そうして、出来ることなら、彼らの善い心に報いてやりたいと考えました。


 となれば話は早いものです。釈迦崎社長は受話器を取ると、人事部の蜘蛛原部長へ電話を掛けました。


「蜘蛛原君は、いまのを観たかね?」
「なんのことでしょう」
「就職活動の特集番組だよ」


 釈迦崎社長は、仕方なくその内容を事細かに説明してみせました。受話器の向こうには喧騒があり、蜘蛛原部長はいまにもため息が出んばかりの返事をしておりますが、釈迦崎社長に気づく様子はありません。


「そこでだ」と、釈迦崎社長は仰々しく喉を鳴らしました。「彼らを採用してやろうと思う」
「お言葉ですが、今期の採用活動は、この前の春に終わりました」
「なんと。追加で取れないものか」
「予定人数もあるので、そんなには取れません」
「そんなにとは何人だ?」
「一人です」
「なんと」


 釈迦崎社長は唸り込んでしまいますが、やればなんとかなるだろう、いまの若者を見て蜘蛛原部長も考えを改めるだろうと、すぐに気を取り直しました。


「一人でも構わない。まずは募集をかけるのだ」
「わかりました」


 こうなっては何を言っても無駄というものです。蜘蛛原部長は、壁にある『思いついたが吉日』という社是を恨めし気に見つめ、ついに首を縦に振りました。そうして、電話を切った後、部員に声を掛け、重い腰を上げました。


 そうとは知らぬ釈迦崎社長は、善意に満ちた表情で、満足げに椅子にふんぞり返っています。部屋に取り付けられた白銀の装置からは、ひんやり冷たい空気が、絶え間なく辺りへ溢れておりました。

 

 


 さてこちらはアスファルトで覆われた真夏のビジネス街で、リクルートスーツに身を包み靴底をすり減らしていた神田太郎です。どちらを見てもビルばかり。その全てが神田太郎めがけて太陽の光を反射させるのですから、その暑さといったらありません。辺りには、神田太郎と同じようにリクルートスーツに身を包んだ学生がうごめいていて、微かなため息がその口々に漂っておりました。


 暑さに耐えかねた神田太郎は、息も絶え絶え近くのスターバックスへ飛び込みました。


 そして、注文を終え、カップ片手にスマートフォンを開いた時のことです。なにげなく求人サイトを開いてみると、『ヘブンズ工業:追加募集』の文字が躍っているではありませんか。ヘブンズ工業といえば、学生の間ではとりわけ人気の高い就職先です。定時退社は当たり前で、有給含め年間百七十日の休日、福利厚生は充実。それでいて社員の平均年収は一千万円を超えるというのですから、まさに天国のような場所です。


 そんな企業が、いまから募集をかけるというのです。きっと春に内定した学生のうちに、辞退する者でもあったのでしょう。神田太郎はそれを見て、内心拳を握りました。一般的に、春と比べて夏の採用は通りやすいのです。なぜなら、企業は欠員補充をしようと必死な一方、学生の内で既に内定を掴んだ者たちは、学生生活最後の夏休みを満喫しようと旅行やサークルに励んでいるからです。


 神田太郎が目の前にぶら下がった糸へ飛びつくと、そこからは早いものでした。当初のもくろみ通り、ライバルがいないためトントン拍子に試験は進みます。履歴書、一次面接、二次面接と、神田太郎は順調に通過していきました。散々面接で落とされた経験も無駄ではなかったようです。過去の反省を生かし、途中で振り落とされてしまわぬよう、しっかりと合格へ近づいていきます。


 必死に取り組んだ甲斐もあり、あとはグループワークと最終面接を残すのみとなりました。この調子でいけば、ヘブンズ工業の内定まであとひと息です。神田太郎は、就職活動を始めて以来、久しぶりに笑みを浮かべました。


 ところが、グループワークを迎えた日のことです。


 会場に指定された千野池駅最寄りの針山体育館へ着きますと、選考に残った学生が所狭しとひしめいているではありませんか。神田太郎はこれを見て、冷たい汗が背中をひやりと伝うのを感じました。


 いくらなんでもライバルが多すぎます。追加募集の枠はせいぜい数名といったところでしょうから、これだけの学生が一度におしかければ、その過半は試験に落とされてしまいます。そうすれば、再び一からやり直しです。履歴書を書き、何度も面接を受けてと、気の遠くなるような道のりです。第一、それで内定を得られる保証もありません。内定のないまま大学を卒業する羽目になるかもしれないのです。


 そう考える間にも、次から次へと学生たちは押し寄せてきます。そうして、体育館に用意された椅子という椅子が埋まりきったところで、恰幅の良い人事部長が、壇上へ気だるげに姿を現わしました。


「人事部長の蜘蛛原です。これよりグループワークを始めます」


 蜘蛛原部長が話を始めると、学生たちの雑談がぴたりと止まりました。体育館の中は波を打ったように静かになり、蜘蛛原部長の声だけがマイク越しに響きます。


「本日は、グループごとに課題へ取り組んで頂き、その取り組みを評価いたします。なお、最終面接へ進むことが出来るのは各グループ一名ずつです」


 蜘蛛原部長がそう言うと、学生の内にざわめきが起こりました。ある学生の動揺は、別の学生の動揺を誘い、その学生の動揺はこれまた別の学生の動揺を誘います。あとがないのは、神田太郎だけではないのです。


 動揺はまたたく間に伝播し、会場中を疑心暗鬼と不安とが覆いました。学生たちは互いの様子を探り合い、ライバルたちの値踏みを始めます。人間関係というものは、いとも簡単にヒビが入るものなのです。


 実際に試験が始まると、足の引っ張り合いは凄絶を極めました。


 試験は、すごろくにパズルの要素を組み合わせたようなものでしたから、各々が知恵を絞り、なんとか相手を出し抜こうと死力を尽くしました。試験が進み後半ともなると、もはや勝負は見えてきます。罵り合う声に混じり、すすり泣く声がそこかしこから聞こえてきます。どういうことか殴り合いまで始まり、なんとか人事部長のポイントを稼ごうと仲裁に入った学生が、気づけばその中心で大暴れをしているという有様です。このままでは共倒れです。いまのうちになんとかしなければ、試験は中止になってしまいます。


 神田太郎は、下心と共に蜘蛛原部長の方をちらりと横目でみやり、他のライバルに差をつけようと大きな声を出しました。


「こら、きみたち。醜い争いはやめたまえ。きみたちは一体なんのために、この会場へやってきたのだ。やる気がないのなら帰ってしまえ」

 

 

 決まった。

 

 

 神田太郎は、内心ほくそ笑みました。蜘蛛原部長だって、きっと感心して神田太郎を採用するに違いありません。


 しかし、「バカやろう」という心ない罵声が飛ばされると、それを皮切りに「カッコつけるな」「この偽善者め」「同情するなら内定くれ」といった悲喜こもごもの感情が、神田太郎めがけて飛ばされました。売り言葉に買い言葉で神田太郎も応じれば、状況は以前に逆戻りです。あるいは、もっと悪くなったかもしれません。もはや止めようとする者は誰もいませんでした。


 醜い争いが最高潮に達した時のことです。それまで何ともなかった蜘蛛原部長がマイクを取り、静かに試験の中止を告げました。神田太郎やその他の学生たちは、その言葉に我に返ると、あっという間に奈落の底へ落ちてしまいました。


 後にはただ内定を持たぬ学生たちが、真夏の体育館に残っているばかりでございます。

 

 


 釈迦崎社長は冷房のきいた自室にふんぞり返り、この一部始終をじっと見ておりましたが、神田太郎が出しゃばったところで悲しそうな御顔をし、蜘蛛原部長へ電話をかけました。蜘蛛原部長は用件を承ると、その指示通り、学生たちへ試験の終わりを告げました。


 他人を思いやる心を持たず、自分ばかり受かろうとする無慈悲な学生たちが、釈迦崎社長には浅ましく映ったのでしょう。先日の特集に出ていた若者たちとは、えらい違いです。


 しかし釈迦崎社長は、テレビをつけるとすぐにそんな事は忘れてしまいました。画面には流行りのラーメン屋が映し出され、器からはゆらゆら湯気が立ち、その中にある金色のスープからは、なんともいえない良い匂いが漂ってくるようです。すると、釈迦崎社長のお腹がぐうと大きく鳴りました。


 そろそろお昼も近くなったのでございましょう。