ショートショートの玉手箱

ショートショートや短編小説を書きます。ときどきエッセイも。 中の人: 都内在住の会社員。大体三十歳。

杜子春(芥川龍之介『杜子春』より)

 



 ある春の日暮れです。

 花の都・東京のひと気のない公園で、ぼんやり空を仰いでいる、一人の男がおりました。

 名は俊春といって、年は三十をようやく数えたところでしたが、見た目は随分老けて見えます。というのも、元は会社の跡取りだったのが、父親の不幸と自身の失恋とが重なった結果、やけくそなワンマン経営であっという間にそれを潰してしまったからです。周りに罵倒され、借金取りに追いかけられるうち、苦労が重なり老け込んでしまったのです。

 東京といえば、少子高齢化にあえいでいるとはいえ、まだまだ東洋随一の都市です。高くそびえるビル群は、太陽が沈んだ後も、遠くの空を明るく照らしておりました。

 俊春はベンチに身を預けたまま、遠くの方の喧騒を他人事とばかりぼうっと眺めております。実際それは他人事で、もはや自分は、その日のパンにすら困る身分なのです。

「日は暮れ腹も減ったが、自分には帰る場所もない。頼るべき人もいない。ならいっそ、富士の樹海で首でも吊ってやろうか」

 しかし、樹海までの交通費すらないことへ考えが至ると、俊春は息を吐きうなだれました。

 するとどこからやって来たか、目の前で足を止める者がありました。なんだろうと顔を上げると、そこにいたのはサングラスをかけた盲の老人でした。老人は唾がかかるくらいの距離まで顔を近づけると、

「お前は何を考えているのだ」と横柄に言葉をかけました。
「わたしですか」

 ほんの刹那、適当なことを言って老人を追い払おうとも考えましたが、どうもこの老人は、自分の考えを見透かしているようです。それで俊春は、仕方なくありのままを答えてしまいました。

「わたしは、死ぬことを考えておりました」
「そうか」
「しかし、そのための勇気も金もなく、どうしたものかと考えていたのです」
「最近の若い者は、すぐ死ぬことを考えてどうもいかん。ここはひとつ、儂がひと肌脱いでやろう」

 老人はそう言って、道路を挟んですぐの工場を杖で指し示しました。

「あそこに儂の工場がある。そこで仙人風ゆるキャラ・ひげじいキーホルダーを作ってみるがいい。大ヒットすること間違いなし。人も、お金も、お前の元へ再び集まることだろう」

 俊春は驚いて、目の前へ視線を戻しました。ところが不思議なことに、盲目の老人はどこへ消えたか、影も形も見当たりません。辺りの闇は深くなり、その分ますます、遠くに見える都会の光は華やいで見えました。

 



 俊春はまたたくまに、国内でも並ぶ者のない大金持ちになりました。老人の言葉通り、工場にあったひげじいキーホルダーを売ってみたところ、若者を中心に大ヒット。漫画化、アニメ化、小説化。ハリウッドでは映画され、海外にまでHIGE・Gの名を知らしめたのでした。

 大金持ちになった俊春は、田園調布のど真ん中に立派な家を買って、政治家にも負けない位、ぜいたくな暮らしを始めました。綺麗な恋人を何人も作ったり、毎日ホームパーティーを開いたり、自家用ジェットを庭に置いたりと、その贅沢を一つ一つ取り上げていては、それだけで聞き手が羨ましくて憤死してしまうほどです。

 SNSを中心に噂は拡散し、卒業以来交流の途絶えていた友人さえ、遊びにやって来るようになりました。そして、それが別の友人を呼び、さらにそれがまた別の友人を呼んで、俊春のアカウントのフォロワー数は、かのアメリカの大統領をも抜きました。俊春の取り巻きは、笑顔で頷く者で埋め尽くされました。

 しかしいくらお金持ちでも、所詮この世は盛者必衰。ブームが去ると、イエスマンばかりの俊春の会社はあっけなく倒産してしまいました。周りの人間は我先と沈む泥船から脱出し、気づけば俊春は、あの日と同じ公園に一人佇んでおりました。

 さて、すると以前と同じように、盲目の老人がどこからか姿を現わして、
「お前は何をしとるのだ」と声を掛けてくるではありませんか。

 俊春は、恥ずかしさと、久しぶりに人と話した嬉しさとで、下を向いたままもじもじとしておりました。が、老人はぶっきらぼうに、しかし優しさの混じった声で同じ言葉を繰り返すので、こちらも前と同じように、

「人も金もわたしを見捨ててしまったので、死ぬことを考えておりました」と答えました。
「お前はどうも、すぐ死ぬことを考えてしまう。ここはひとつ、儂がひと肌脱いでやろう」

 老人はそう言って、交差点にある建物を杖で示しました。

「あそこには、仙人印の健康水素水が――」

 あとは昔と同じです。仙人印の健康水素水は、飲めば長寿と、ワイドショーや週刊誌、ネットで話題騒然となりました。人も金も俊春の元へ舞い戻って来ましたが、粗悪な類似品が市場に出回ったところ、「仙人風味の健康水素水に科学的根拠なし」の報道が行われました。それをきっかけに返品が相次ぐと、また一文無しの友達無しになってしまいました。

 



「お前は何を考えているのだ」

 盲目の老人は、俊春の前へ来て、同じことを問いかけました。もちろん彼はその時も、東京のひと気のない公園でぽつんと一人、沈みゆく西日を眺めていたのです。

「わたしですか。ほとほと疲れ果ててしまったので、死ぬことを考えておりました」
「お前はどうもいかん。ここはひとつ、儂がひと肌脱いでやろう。そこのところに、人の心を見透かす眼鏡があってだな――」

 老人がこう言いかけたところで、俊春は急に手を上げて、その言葉を遮りました。

「お金はもういらないのです」
「なるほど、贅沢をするには飽きてしまったと見えるな」
「いえ、贅沢に飽きたのではありません。おいしい食事は好きだし、美女と戯れるのはもっと大好きです。けれどわたしは、人間というものに愛想が尽きたのです」
「どうして愛想が尽きたのだ」

 老人は、サングラス越しに俊春を見つめてきます。盲のためか、サングラスに透けて見える両眼は視線があちこち散らかっていますが、こちらの心の内をしっかり見据えています。俊春は、胸の中のごつごつした言葉を、そのまま取り出して言いました。

「人間は皆薄情です。事業がうまく回り、金のある時は皆へぇへぇ後ろをついて来ますが、ひとつコケてしまえば、くるりと掌を返してしまいます。友達も恋人もわたしから距離を置き、気づけばいつも取り残されてしまいます。たとえ再び大金持ちになったとしても、きっとわたしは、その恐怖から逃れることが出来ません。笑いながら内心びくびくし、人を疑い生きていくことになるでしょう。そんなのむなしいし、疲れるだけです」

 老人は俊春の言葉を聞くと、急ににやにや笑いだしました。

「お前はなかなか、物事のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、つつましく暮らしていくつもりか」
「いえ、それもいまのわたしには出来ません」
「それではどうするつもりだ」
「あなたの弟子にして頂きたいのです」
「儂の弟子?」
「そうです、あなたの弟子です。わたしにはわかっているのです。あなたはきっと、徳の高い仙人でしょう。そうでなければ、いままでわたしにしてくれたことの説明がつきません。なんとかわたしに、不思議な仙術を教えてくれはしませんか」

 老人は、サングラスの向こうで瞑想し、しばらくは黙って何事か考えているようでしたが、
「いかにも儂は仙人だ。弟子を取ることはしないつもりだったが、初めて会った時から、どうもお前が気になっておった。なんとなく放っておけないのだな。よかろう。そこまで望むなら、お前に修行をつけてやろう」

 俊春の喜びようといえばたいそうなものでした。全身を天に向け伸ばし、歓喜の声をあげるのです。これには仙人も、思わず苦笑いです。しかしやがて顔を取り正すと、俊春に対しはっきりこう言いました。

「喜ぶにはまだ早い。いくら儂の弟子となったところで、立派な仙人になれるか否かは、お前次第なのだから。まずは一緒に、そこの山まで一緒に来てみるがいい」

 そう言って仙人は、通りがかりのタクシーを呼び止めました。それを見て俊春は「空を飛んだりはしないのですね」と言いました。

「撮影でもされたら厄介じゃろが」

 悠々とタクシーへ乗り込む仙人の背中を眺め俊春は、「本当に仙術を身に付けられるのだろうか」と一抹の不安を覚えました。

 



 二人を乗せたタクシーは、山中の道なき道をくねくね曲がり、崖を落ちそうになりながら、ようやく目的地へたどり着きました。目の前には粗末な建屋があります。

「さあ、遠慮せずに入るがいい」

 仙人は俊春を招き入れます。俊春が何気なく振り返ると、いつの間にかタクシーは姿を消していました。

 建屋には、炉と、それを囲むように敷き詰められた畳があるだけで、あとは見事に何もありません。そして、二人横になれば、寝返りを打った瞬間身体をぶつけてしまいそうなほど狭いのです。

「どれ、儂は夕飯を採りに山へ行ってくる。その間お前はここに座り、儂の帰りを待つがいい。儂がいなくなれば、辺りの魔性がお前をたぶらかそうとするだろうが、たとえ何が起ころうとも、決して声を出してはいけないぞ。もし一言でも口をきけば、お前は仙人になるのを諦めなくちゃいかん。いいか、大事なことだからもう一度言う。決して声を出してはいけないぞ」

 これは、逆にそういう「フリ」なのだろうか。「駄目だ」と釘を刺しておきながら、暗にそれを行動に移すよう示唆する、最近流行のテレビのネタなのだろうか。

 弟子になれた嬉しさから、俊春は軽口を叩こうとしましたが、仙人の厳かな表情を見ると、そんな気もすぐに失せてしまいます。俊春は居住まいを正し、畳の上に座り込みました。

 そして、十分ほど経った頃でしょうか、

「お届け物です」と扉を叩く音がするではありませんか。驚き目を開くと、粗末な木戸は、いまにも壊れそうなばかりに揺れています。つい返事をしかけましたが、「これは魔性の仕業に違いない」と喉の奥へぐっと押しとどめました。

 さらに、また十分ほどすると、今度は「NHKです」と扉を叩く拳の音がするではありませんか。これには俊春も驚き、「仙人のくせに受信料も払っていないのか」「代わりに俺が払ってやろうか」「いやいや俺はいま一文無しの修行の身だった」といった考えが頭の中を去来しました。

 そうこうする内、NHKの集金の気配もぱったり消えてしまいました。その後も、小学生のピンポンダッシュ、宗教・新聞の勧誘、話し相手を探し求める近所のおばさん等と、おおよそこの山奥には似つかわしくない人々が訪れては、建屋の戸を叩いていきました。魔性ももう少し、それらしい工夫を出来ぬのか。俊春はうっすら苦笑いを浮かべ、畳の上に座しておりました。

 そんなことが続き、そろそろうとうとしかけた時のことです。

 再び扉を叩く音が響きました。しかし今度は、なにやら様子が違います。拳の音はひどく粗野で、暴力的で、今にも扉を突き破らんばかりでした。

「強盗だ。中に居るのか、居ないのか。いいや、居るのはわかっているぞ。息をひそめ、俺の様子を窺っている。この場を去り、すぐにその身を引かぬかと。しかし、そういうわけにはいかぬのだ」

 強盗は思い切り力を込めると、そのまま扉を倒してしまいました。

 俊春は初めおろおろと狼狽していましたが、「そうだこれも魔性のまやかしに違いない」と考え、狸寝入りをしてしまいました。

 しかし、家に押し入った強盗が、立ち去る気配はまるでありません。俊春のすぐそばに立ち、「寝たふりの下手な奴だ。いますぐ起きて、金の在り処を教えるのだ」と野太い声で脅しつけてきます。

 もちろん俊春は、仙人の言いつけを守り、返事をしないでおきました。

 ところがまたしばらくすると、「どうしても返事をしないつもりだな?」と強盗が問いかけてくるではありませんか。俊春はつられて、「その通りだ」と危うく返事をしかけましたが、喉の奥でぐっとこらえてみせました。

「よかろう。これでも返事をしないでいられるか」

 強盗はそう言うと、小屋の外から他の者を引っ張ってきました。なにやらその声には、聞き覚えがあります。

「さて、もう一度問いかけよう。この家の財宝の在り処を答えるのだ。さもなければ、お前の母はこうだぞ」

 ひゅっと風切り音がしたかと思うと、鞭を打ち付ける音と、女性の悲鳴が響き渡りました。

 目を開き振り返ると、そこにいるのは、俊春が高校生の時分にこの世を去った母ではありませんか。家を空けがちな父の分まで、俊春へ愛情を注いでくれた母ではありませんか。その母が、ぼろ雑巾のような衣服を身にまとい、背中から血を流しています。

「ようやく起きたな。どうだ? 財宝の隠し場所を吐く気にはなったか?」

 俊春は、それでも黙っておりました。

「まだ打ち方が足りないと見える」

 強盗はそう言うと、鞭を取り、母の背中を容赦なく打ちつけました。何度も何度も、執拗に。打ちつけられるたび、母は悲痛な叫びをあげ、引き裂かれた皮膚の表面には、白い骨がうっすら露出しています。

「どうだ、まだ白状する気はないか」

 強盗は鞭の手を止め、俊春へ問いかけました。俊春は目を瞑り、必死になって仙人の言葉を思い出しています。そうでもしなければ、いますぐにでも声を出してしまいそうです。

 するとどうでしょう。ほとんど葉擦れのような微かな声が、風に乗って彼の耳まで届きます。

「俊春や、立派になったね。昔はあんなに弱虫だったのに。いいよ、わたしのことは心配しないでおくれ。わたしはどうなっても、あなたは自分の決めたことを貫きなさい」

 懐かしい母の声でした。

 はるか昔に遠くへ旅立った、母の声でした。

 思わず目を開けると、目の前では、母が息も絶え絶えに横たわっています。その眼には、昔と変わらぬ優しい光が、俊春を慈しむように宿っています。母はこの苦しみの中にも、息子の心を思いやり、強盗に鞭で打ちつけられることを、恨む気色さえ見せないのです。金のある時はお追従し、金がなくなればあっという間に消えてしまう世間の人間と比べると、なんと温かい心でしょう。なんと柔らかく、広い心でしょう。俊春は仙人の戒めも忘れ、母の元へ近寄ると、両手に必死に母の身体を抱いて、「お母さん」と一声叫びました。

 



 その声に気が付いてみると、俊春は一人、落日の公園に佇んでいるのでした。夕焼けに染まる空、急ぎ足で家路に着く勤め人、高くそびえる遠くのビル群。全てが仙人の小屋へ行く前と同じ様子です。

「どうだ。儂の弟子になったところで、とても仙人などなれやすまい」

 盲の老人は、微笑みを含みながら言いました。

「なれません。けれど、仙人になれなかったことが、わたしにはかえって嬉しい気もするのです」

 俊春は目に涙を浮かべ、老人へ微笑み返しました。

「鞭を受ける優しい母を見て黙っていることなど、わたしには出来るはずもありません。わたしは、仙人などとは程遠い、凡庸な男のようです」
「もしお前が黙っていたら」

 老人は急に厳かな顔になって、そして、例の盲の目で、俊春をじっと見据えました。

「いや、これ以上はよしておこう。ところで、お前はこれからどうするつもりだ?」
「欲におぼれず、普通に、人間らしい暮らしをするつもりです。適当なところで働き口を見つけ、のんびり暮らしていこうと思います」
「よしきた。その言葉を忘れるな。儂は今日ぎり、お前とは二度と会わないから」

 仙人はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に足を止めて俊春の方を振り返ると、

「そういえば、山形の小さな町に、『仙人チェリー』という農園を一つ持っている。そこに口を用意しておくから、もしよければ、いますぐ行って職を求めるがいい。ちょうど今頃は、農園いっぱいに果実の匂いが溢れているだろう」と、さも愉快そうに付け加えました。